Photographic Works of Daishin Sakuma
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humane attention

この《人間的なアテンション》という作品は、YouTubeに毎秒6時間分(毎分15日分)のペースで動画が公開される様子を再現したものです。
本作における「人間的なアテンション」という概念は『夢と希望』と『人間的なアテンション』という2本の小説のなかで詳しく解説しています。また、Google Geminiがわかりやすく、この2作をまとめてくれた『「人間的なアテンション」のわかりやすい解説』もございます。こちらは1000文字程度で短いので、ぜひお読みください。その上で、簡単に本動画作品《人間的なアテンション》2025についてコメントします。
この作品においては私たちの「注目の総量」の有限さを感じることができると思います。私たちの多くはここで登場する数日分の映像のどれも見たことがありません。その意味で私たちが生きている間に実際に「注目」する情報というのがどれだけ限られているか示唆します。また、この映像をぼうっと眺めていると、そのなかでも、私たちの注意を惹くある種の映像とそうでない映像があることに気が付きます。その意味でアテンションの「対象」と「非対象」のコントラストも鮮明になります。
しかし、この作品において流れている情報は、本当に取るにたらないものですらないという事実もパラドクシカルです。つまり、これらの動画をしっかりと頭に入れたら、これまで光の当たってこなかった、世界中の豊かな情報にアクセスできるようなものではないということです。ここに上がってきているのは良くも悪くも非常に取捨選択された選りすぐりの情報です。まずもって、例えば中国やロシアの人々はYouTubeをほとんど利用していません。もちろん中国人やロシア人も国外の情報を手に入れたり、外国へ情報を発信する手段として、VPN経由でYouTubeなどのプラットフォームにアクセスする人はいるのですが、国内向けの情報はほとんど自国産のプラットフォームでやりとりされています。その結果、ネット人口の多いインド、中南米、東南アジア、ヨーロッパ、日本などの情報がYouTubeには溢れています。また、YouTubeにアップロードされる情報というのは、誰かがカメラをむけて撮影したり、わざわざ画面録画をしたりして、そのうえで多くの場合何かしらの編集を加えるなどしてYouTubeに公開しているものなのです。つまり、その時点で、ある意味において「アテンションの対象」にほかなりません。一方でアテンションの非対象の極みに感じられた情報が、アテンションの対象でもあるというギャップがあるわけです。
そのほかにもいろいろと考えられることはありますが、つらつらと記述しても面白くないので、途中をすっ飛ばして、普段から考えていることも含めてごちゃまぜな感想を述べます。
SNSとか情報化社会の弊害とされることも、実際には情報量の多寡が本質ではなくて、結局のところ私たちが何を見たいかについて考えていないことが問題なのだと思います。というか、私はそもそもこうしたことを問題だとすら思っていません。みんな望んでやってる気もするし。別にいいんじゃね? としか思わないですね。でも多くの人が「問題だ」というので、であれば何が問題かといえば、本質はここなのでは? と考えてるだけです。
似たようなことは小説のなかで「人間的なアテンションの奈落」とか「根本性」などをキーワードを用いたり、「実際のところ誰をいじめるか」についてのくだりで具体例を提示しつつ触れています。またリベラル的な「これまで光が当たってこなかった物事に注目しよう」という態度について、私が普段から感じている違和感も本作を通じてある程度、再現できた気がします。つまり、より多くのものになんて注目できるわけがないし、本当に取るにたらないヴァナキュラーなストーリーは、あなたみたいなインテリがアクセスできるものではないよ、みたいなことです。そのうえで、そもそも、より多くの物事を知ったり体験することが良いことだという「良い生は豊かな生」的な価値観もよくわからないという感じですね。
そんなこんなで人類にとっては、多くの人と話したり文章を書いたり作品を作ったりすることよりも(ましてやそれらを読んだり見たりすることよりも)、一人で淡々と修行に励む方がよっぽど重要なのでは? と思ったりしています。