プレイ画面
開発画面とソースコードの一部
《三目並べと石取りゲーム / Naughts and Nims》: naughts-and-nims.vercel.app では先手が三目並べ、後手が石取りゲームをプレイし、勝敗を争うことができます。プログラムは三目並べと石取りゲームというふたつのゲームの状態を全射的に変換し、どちらのプレイヤーからみてもルール上破綻のないプレイを可能にします。
本ゲームにおける変換において「好手」と「悪手」は対応しており、どちらのプレイヤーも自分のプレイしているゲームのことのみを考え最善手を打ち続ければ、理不尽に負けることはありません。アプリ内に詳しいルールの説明もございますが「8手以内に決着がつかなければ引き分け」など、多少の変則ルールもございます。
本作は、写真的にいえば、ある空間を異なる空間に変換する装置=カメラのひとつとして制作されました。また社会的にいえば、現代における対話の再構成に取り組んだ拙論『変化に開かれた対話: 論破や無関心を用いて』(2025)で論じた「間世界観の対話」を体現する作品でもあります。同時に本作は、藤井聡太竜王・名人の「今までと違う景色」にかんする一連の発言であったり、ヴィレム・フルッサーの「チェス」の比喩、永田康祐の《三目並べと数字ゲーム》、みゃこの「一人じゃんけん」へのオマージュでもあります。
「間世界観の対話」について私は『変化に開かれた対話』で次のように述べています。「本稿における『対話』や『議論』は複数の人物がひとつの場所で何かしらのゲームをプレイする状況を指す。このとき参加者のルールやプレイスタイルが一致している必要はないが、ひとつの場所で共にプレイをするという条件は重要だ。しかし本稿における『対話』は、ただ相手の主張を受け入れることではなく、またこれは相手に譲歩することでもない。つまり、同じフィールドでゲームをプレイするために自らが持っていた世界観を闇雲に否定したり、相手の意見をそのまま聞き入れる必要はない。むしろそれは異なるルールに基づくプレイヤーたちが遊戯的な興味や関心、気まぐれや突飛で柔軟な思考のもたらす間世界観的な跳躍をもって、未知なる他者との関係のなかで自らの世界観を豊かしめ拡張してゆくようなゲームなのだ」。ここで必要な「飛躍」や「気まぐれ」はみゃこさんの「一人じゃんけん」やSyamuさんの「おふざけ」から学ぶことができます。
みゃこさんは、左手と右手によるじゃんけんをランダムに行って乱数を生成することができます。通常、間世界観的な跳躍の場としての実世界やゲームの盤面は、世界観の隔たりのある他者同士の間に想定されます。しかし、みゃこさんにおいては、こうした場が内在しているのです。これは後述するような自己の単一性や主体性という幻想をかろやかに超越する、人間的な規範からいえば逸脱的なものでしょう。しかし、これは彼女が、ある空間を別の空間に変換する写真的な変換を内在的に成立させていることの証左です。ここでいう「ある空間」とは、人間的には「世界」を意味するものであって、例えばこれは私たちの一部が「記号接地」していると信じているところの「世界」にあたります。私たちが写真機における空間を世界として感じうることやその拡張を目指す機能をもつことについては、藤井聡太の発言に注目することができます。
藤井は、将棋というゲームにおいて「今まで見たことのない新しい景色」にたどり着くことや「盤上において、一手ごとの景色の移り変わりを表現できるような濃密な戦い」を実現することに取り組んでいるといいます。こうした目標について語る際、彼は「景色」や「表現」といったタームを好んで用います。有限の局面の集合やそのなかでの選択と、通常、人々が雄大な自然のなかで用いる「景色」や自由な自己の表出として考える「表現」といった言葉を並列に用いることに違和を感じる方もおられるかもしれません。しかし、その言葉遣いは自由や創造性にではなく、むしろ偶然性や選択にこそ自然や生があるという、写真的な自然観とともに彼があることを象徴しています。
自然が立ち現れてくる際、人間的な感覚や諸関係性によってそれと対峙するのではなく、それ自体が世界であり、そしてまた、ある世界を別の世界に変換したり伝達することのできる装置やシステム、プログラムとの和解を達成することは、人類が自然のなかで生き、私たち自身の存在を取り戻すための条件となりました。このとき、人間的な諸感覚や感性を否定し、人間性を私たちの生から引き剥がし、写真的に自然と関わってゆくことが重要になります。しかし、こうした実践の重要性は一部のインターネット・フィギュアや棋士、写真家を除く多くの人々には無視され続けてきました。
こうした「引き剥がし」の重要性については写真における表象論的な議論を批判した「写真の全体性と写真作品の歴史的理解」(photogénie vol. 4, 2023)でも触れています。「被写体の世界とは被写体の現実の視覚的状態=光景の全世界であり、これは物理的な可能性にその限界をもっており、写真の全世界は可能な写真にその限界をもつ。落合陽一が写真機を『自然の計算機』であると述べるように、光景の世界と写真の世界は全射的であり、相互に対応している。しかし『意味』において、異なる全世界=全体性を持つ広がりは、相互に対応するにすぎない。つまり、写真における『意味』を被写体の現実の視覚的状態の属する全世界の語彙で語ることに一種の『価値』のようなものがあるとするならば、同様に写真の属する全世界の語彙で現実の視覚の『意味』を語る試みにも同じ『価値』があるとしなければならない」。
このように述べたとき私は、もし私たちの世界における記号の接地といったことが重要だと主張するならば、まさに同じ理由によって、私たちが人間的に生きていないすべての自然や世界における意味と接地していないことについて批判されなければならないという倫理を示していたのです。人類がこれまでに見出してきた創造性や自由、自他のアイデンティティーや視覚、エージェンシーといった人間的な星座の数々は、人類が生きていないすべての自然(例えば星々の世界)を理解するためにでっち上げてきた占星術的な概念に過ぎません。つまり、こうした人間的な概念や人間性は時代錯誤のものであります。むしろ複製、模倣、生成技術時代の芸術は、私たちが生きる際に接地せず、自己や主体性、自己同一性を完全に忘れ去り、選択や偶然に自然を見出すような写真的な倫理のうちに成り立つのです。